書評

科学と科学哲学の関係を考える
(Lurz, Mindreading Animals: The Debate over What Animals Know about Other Minds)

中尾 央 2012-04-06

実際の科学にとって科学哲学が役に立つのかどうか.あるいは役に立った事例があるのかどうか.CUNY(The City University of New York)Brooklyn College哲学科に所属するRobert Lurzによるこの本は,心の哲学と心の科学に関して,この問いに対する一定の回答を示唆してくれている.

経済成長なき社会発展は可能か?
(ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』)

大場 裕一 2011-09-05

われわれは何処へ行こうとしているのか。フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュは、「経済成長」という信仰の呪縛から逃れ〈脱成長(デクロワサンス)」へと価値転換を起こさなければ人類に未来はない――つまり「消費を常に増大させることを前提とするようなこの狂気じみたシナリオを放棄しなければならない」(P123)と説く。そのとおりだ!我々は過剰消費のためにあくせくと働き、精神的に疲れ切っている。せっせと地下資源を使い果たしながら生物圏を破壊し、農薬を大量に使った食品を遠くから輸送し、それを過剰に摂取して進んで自分の健康を損ねている。

ポアンカレの「科学のための科学」とはどういう意味だったのか?
(ポアンカレ『科学と方法』)

大場 裕一 2011-11-28

ポアンカレといえば「科学のための科学」である。そしてこの言葉の意味は、科学はそれ自体に価値がある、という高らかな理想主義の宣言であると一般には解釈されている。しかし、ポアンカレは実際そんなことが言いたかったのだろうか?

経済成長なき社会発展は可能か?
(ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』)

大場 裕一 2011-09-05

われわれは何処へ行こうとしているのか。フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュは、「経済成長」という信仰の呪縛から逃れ〈脱成長(デクロワサンス)」へと価値転換を起こさなければ人類に未来はない――つまり「消費を常に増大させることを前提とするようなこの狂気じみたシナリオを放棄しなければならない」(P123)と説く。そのとおりだ!我々は過剰消費のためにあくせくと働き、精神的に疲れ切っている。せっせと地下資源を使い果たしながら生物圏を破壊し、農薬を大量に使った食品を遠くから輸送し、それを過剰に摂取して進んで自分の健康を損ねている。

ドーキンスが言うように宗教はほんとうに要らないのか?
(ドーキンス『神は妄想である』)

大場 裕一 2011-07-25

近頃のドーキンスは、ちょっとヒステリックである。皮肉たっぷりでイライラした調子は、「利己的な遺伝子」(1976年)で世界に広く知られるようになった知的でクールな彼の従来イメージとは相容れない。特に、グールド批判には遠慮がない。「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌を取るという芸当」(P86)などとは、これほどヒドい悪口も珍しい。

科学とは赤ちゃんが生き抜くための術だったのか?
(ゴプニック『哲学する赤ちゃん』)

大場 裕一 2011-06-27

科学とは、統計や実験によって現象の因果関係の理解を修正しながら体系化してゆく作業である。UCバークレーのゴプニック教授は、これと同じ意味で「子供(赤ちゃんや幼児)は科学者と同じやり方で学習する」(P27, 116)という「理論理論」(“Theory theory”, Gopnik, 2003)を提唱している。

われわれヒトが今このようにあるのは偶然である
(コンウェイ=モリス『進化の運命』)

大場 裕一 2011-04-27

カンブリア爆発にスポットを当てたことで化石屋コンウェイ=モリスを一躍スターダムにのし上げたのは、他でもないS.J.グールドの「ワンダフル・ライフ」である。それなのに、その恩人を誤解してケチを付けるとは、キリスト教徒(P502)として如何なものだろう。

ミームから30年:ミームにこだわる必要はもはやない?
(ドーキンス『利己的な遺伝子』
 アンジェ『ダーウィン文化論』)

大場 裕一 2011-03-31

前回の書評で少しだけミームに触れたので、今回はミームに関する2冊を紹介する。

ひとつめは、ミームの正典「利己的な遺伝子」。ただし、ここに紹介するのは2006年に出版された30周年記念増補版。1976年に初版が出て以来ずっと人気の衰えないこの記念碑的著作に、著者ドーキンス自身がその後の30年を振り返った序文を添えている。

ブルデューが最後に考えた「科学とは」
(ブルデュー『科学の科学』)

大場 裕一 2011-02-11

自らを社会科学者と位置づけるピエール・ブルデュー (1930-2002) の講義録。ブルデューにとって、これが最後の講義となった。彼が幅広い守備範囲の中から最後に科学を論じた理由は、自らが行ってきた社会科学をマトモな科学のひとつとして救い出したいからである。そして、その方法として自らの社会科学を使うのである(これが、本書のタイトル「科学の科学」の意味)。またブルデューは、この救出作業が、商業主義に呑まれている科学者に軸を取り戻させる作業であるとも考えているようだ。相対主義と素朴実在論の両方から距離を置こうとするブルデューの科学論は、科学者の感覚にもよく馴染むように思う。