経済成長なき社会発展は可能か?

大場 裕一

書評:ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』

われわれは何処へ行こうとしているのか。フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュは、「経済成長」という信仰の呪縛から逃れ〈脱成長(デクロワサンス)」へと価値転換を起こさなければ人類に未来はない――つまり「消費を常に増大させることを前提とするようなこの狂気じみたシナリオを放棄しなければならない」(P123)と説く。そのとおりだ!我々は過剰消費のためにあくせくと働き、精神的に疲れ切っている。せっせと地下資源を使い果たしながら生物圏を破壊し、農薬を大量に使った食品を遠くから輸送し、それを過剰に摂取して進んで自分の健康を損ねている。

じゃあ、〈脱成長〉を達成するには何をすればいいんだ?この問いに対するラトゥーシュの答えは次のようなものだ。「過剰広告に振り回されないようにしよう」「要らないものを売らない買わない」「遠くに旅行するのはやめよう(ツーリズム批判)」「近くで取れたものを食べなさい(産直運動)」「小さな集団にまとまってそのなかで完結して暮らしなさい(再ローカリゼーション)」「簡素な生活をしよう(エコロジカルフットプリントの削減)」…。これらの提案はずいぶん素朴に聞こえるけれども、やはりそういう「発展への執着心」(P12)(あるいは、経済縮小は退行であるという恐怖、または「発展パラダイム」(P45))からの価値転覆を起こさなければならないのは事実かも知れない。しかし、今さらそんなことができるのか?実は、いまそういう方向に人々の価値観は動きつつあるのではないか?しかも、残念ながらそれは外的な悲劇の経験とともに。例えば、災害で流通が遮断し遠くから物品が届かなくなる。すると、それはなくても困らないものだったことに気がつく。節電せざるをえなくなったが、やってみると無駄な電気を使っていたことが分かった。どこぞのブランド牛肉は、どうしても食べなくてはならないものではなかった。などなど。

それでは、〈脱成長〉はこの資本主義の中で実現可能なのか?(P244)ラトゥーシュはこう言う――「〈脱成長〉は断固として反資本主義の立場をとる」(P246)けれども従来あったような「生産主義的な社会主義」(P245)を目指さないことは勿論である、と。では、どういう社会体制において〈脱成長〉が実現可能になるのか?そこに来るとラトゥーシュの答えは歯切れが悪い。「したがって、発展、経済、成長からの脱出は、経済と関わっている社会制度のすべてを放棄するのではなく、むしろそれら諸制度を別の論理に組み込むことを意味する。〈脱成長〉はおそらく「エコロジカルな社会主義」と見なすことができるだろう」(P248)とあいまいに濁すばかりである。もっとも、本当に〈脱成長〉が有望ならば、それを実現する手段はこれから考えて行けばいいのである。達成方法が分からないからといって理想ごと捨ててしまうのは勿体ない。

さて、この〈脱成長〉を達成するために、あるいは〈脱成長〉を達成した社会において、自然科学はどのような役割を果たすことができるだろうか?残念ながらラトゥーシュの考察には自然科学の使命についてはほとんど出てこない。むしろ「科学技術のイノヴェーションにモラトリアムを設けること」(P222)が提唱されている。大量消費社会を「持続可能」にする(という実現不可能なことを目指す)原子力発電や遺伝子組み換え作物の技術開発は必要ないのだ(当然、留学生30万人計画なんていうもの要らない)。もちろん、〈脱成長〉を達成した社会においても科学がまったく不要になることはないだろう。しかし、これまで経済拡大と足並みを揃えて巨大化してきた科学という営みも、経済縮小とともに〈脱成長〉しなければならないことはやはり必然のように思われる。

(2011-09-05公開)

書誌情報と関連リンク

セルジュ・ラトゥーシュ (著)
中野 佳裕 (翻訳)
『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』作品社 (2010/7)

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