ドーキンスが言うように宗教はほんとうに要らないのか?

大場 裕一

書評:ドーキンス『神は妄想である』

近頃のドーキンスは、ちょっとヒステリックである。皮肉たっぷりでイライラした調子は、「利己的な遺伝子」(1976年)で世界に広く知られるようになった知的でクールな彼の従来イメージとは相容れない。特に、グールド批判には遠慮がない。「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌を取るという芸当」(P86)などとは、これほどヒドい悪口も珍しい。

本書は、タイトルからも分かる通り、要するに「宗教は、百害あって一利なし」「宗教なんて捨ててしまおう」というドーキンスの非科学追放宣言である。ここでなぜグールドが批判されるのかと言うと、グールドが考案した(あまり流行らなかった)造語「NOMA」が気に食わないのである。NOMAとは、「重複することのない教導権(non-overlapping magisterial)」の略語で、ひと言でいうと「科学は宗教に口出ししないから、宗教も科学には首を突っ込むな」という住み分けのこと。ドーキンスはこれを「手ぬるい!」として否定するわけであるが、ドーキンスの意図とは反対に私などは読んでいて「へぇ、NOMAって結構いい線いってるんじゃない?」と思ってしまったのだが…。

宗派対立や非人道的儀式や戒律や差別など、確かに宗教には悪い面が多い。また、本書の大部分を占める議論「人間は宗教がなくても善良でいられる」という点にも同意する。しかし、私には、ドーキンスの全面的な宗教否定は、知性と名声に恵まれた者から見た「強者の論理」に思えてならない。宗教は、理不尽な悲しい出来事に遭遇した人や、ものごとを余り論理的に考えるのが面倒な人、自分も愛されたいと思い悩む人、そういう(決して特別じゃない)人たちにとってやはり必要なのではないだろうか?ちなみに私は、寺や神社に行っても見学するだけで決して手を合わせない無宗教者である(縁者の葬式で手を合わせるくらいの常識は持っているが)。しかし、ついこの間のこと、自分の子供にある先天性障害の疑いが出たとき、あろうことか私の中に「信じる」という非科学的な気持ちが生じてしまった。もちろん特定の対象物に祈ったわけではないが、あのときの「信じる」という気持ちは宗教に限りなく近く、特定の対象が与えられればその方が気持ちが楽だったにちがいないとさえ思い返されるのである。だからなおのこと、ドーキンスの考えに私は与する気持ちにはなれない。

もっとも、こうしたドーキンスの強気発言の中にも弱点の自覚はありそうだ。この本の最後のあたりでようやく宗教の「慰め」効果(P517〜)について言及されるが、「宗教を持つ人が死を恐れている」というだけの理由で宗教の慰め要素を全面却下しているのは無理がある。また、宗教の文化的・文学的伝統を捨ててもいいのかという点についても歯切れが悪い。一時的にとはいえ宗教世界に思いをめぐらさずに、大聖堂や宗教絵画を心からの感動を持って鑑賞することができるというのか?私はそうは思わない。

(2011-07-25公開)

書誌情報と関連リンク

リチャード・ドーキンス (著)
垂水 雄二 (翻訳)
『神は妄想である―宗教との決別』早川書房 (2007/05)

出版社による本の紹介

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