ミームから30年:ミームにこだわる必要はもはやない?

大場 裕一

書評:
A. ドーキンス『利己的な遺伝子(増補新装版)』
B. アンジェ『ダーウィン文化論―科学としてのミーム』

前回の書評で少しだけミームに触れたので、今回はミームに関する2冊を紹介する。


ひとつめは、ミームの正典「利己的な遺伝子」。ただし、ここに紹介するのは2006年に出版された30周年記念増補版。1976年に初版が出て以来ずっと人気の衰えないこの記念碑的著作に、著者ドーキンス自身がその後の30年を振り返った序文を添えている。

ミームという言葉は、1976年にこの「利己的な遺伝子」の中で初めて登場した。ただし、急いで付け加えておくが、この本の主題はミームではない。この中でドーキンスが言いたかったことは、「自然選択を受ける単位は遺伝子である」ということと「なぜ利他的行動が進化しうるのか」ということの2点だったということを再確認しておきたい。ミームは、あくまでもこの2つの点を補強するために提案された「おまけ」だったのである。しかし、このドーキンス流の見事な造語が大いに評判となり「ミーム論」として一人歩きを始めることになる。では、その後のミーム論の熱狂を検討する前に、ドーキンスの提唱した「ミーム」とは何だったのか?その「正典」をたどってみよう。

ミームとは、ドーキンスの言葉を借りると「文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞」(A: p296)のこと。生物進化の単位が「遺伝子Gene」であるならば、文化進化の単位を「ミームMeme」と呼ぼうという提案である(ギリシア語で「模倣」を意味する〈Mimeme〉に由来する)。たとえば、「旋律や、観念、キャッチフレーズ、衣類のファッション…はいずれもミームの例である」(A: p297)。

もう一冊の「ダーウィン文化論」は、手短に紹介しておこう。こちらは、1999年にケンブリッジ大学で行われた「ミーム論」(ミーム概念を使って文化を理解しようという立場)についてのシンポジウムをまとめた論文集。その内容は、「ミームはすごい」「いや、ちっともすごくない」と、ミーム熱に浮かれた(あるいは冷め切った)論者同士の意見は収束するどころか混乱したまま平行線をたどる。祖師ドーキンスは(賢明にも)本書には登場してないが、おそらく陰で苦笑していたに違いない。だが、これが現在の「ミーム論」の現状なのだ。読んでいてあまり楽しい本じゃないが、その現状を知るためにも読む価値はある。高みの見物を決めているドーキンスの本だけからでは、この現状はわからない。


さて、ここからは私の個人的な感想になることをお許しいただきたい。「ミーム論」の熱狂と混乱に対する私の考えは、おそらくドーキンスと同じく「苦笑」あるいはアダム・クーパー(社会人類学者)の言う「もしミームが答えなら、何が問題なのだ?」(B: pp165-211)に近い。そもそも、ミームは「遺伝子だけが唯一の自己複製子単位ではない」ということを説明する一例として登場した「目新しいイメージ」(A: pxvi)であり、もともと「文化はミームにより成り立っている」というような強い主張(B: p181)ではない。また、「単位ミームが何から構成されているか」(A: p301)については、遺伝子の単位でさえ厳密に限定できない(B: p217)のだから「自明ではないことははっきりしている」(A: p301)。さらに、「利己的な遺伝子」というアイデアが生物学上の新発見ではない(A: pxvi)ことと同様に、「ミーム」というアイデアは文化人類学上の新発見ではない(B: p215)。また、ミームが「生物学的有利さ」(A: p298)にどう関係するかは重要ではないことも、初めからはっきりと書いてある。しかも、これらの基本的な部分はその後ドーキンスによって書かれた「延長された表現型」(1982)でも殆ど変更がないのだ。

それなのに、文化進化の理解にミームを持ち出す「ミーム論者」が後を絶たないのはなぜだろう?ミームの生みの親のドーキンスが「ミームはそういうものじゃない」と言っているのだから、わざわざミームという言葉を使いたがらなくてもいいんじゃないのか?「模倣」は文化を理解するための多くのキーワードのうちのひとつであることは確かだと思うが、それを殊更に「ミーム」と呼ぶことで、文化研究のフィールドをいたずらにかき回しているような気がする。

「ミーム」「利己的な遺伝子」「パラダイム(クーン)」「ディスタンクシオン(ブルデュー)」など、人の心を捕らえるキャッチーなフレーズやタイトルを思いつく俊才たちはいつも本人の与り知らぬ熱狂と言われなき批判にさらされる宿命にあるようだ。「利己的な遺伝子」30周年記念版の序文の中で、ドーキンスは「多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、本をタイトルだけで読みたがる」(A: pii)と皮肉を言っている。だからまず、耳ざわりの良いフレーズだけに反応して議論を開始せずに、書籍をちゃんと読むことから始めようではないか。優れた書籍は、海外のものであっても(多少の遅れはあるが)たいがいきちんと邦訳が出ているのだから、読むこと自体は決して大変な作業ではないはずだ。

ミームは素晴らしい「啓発的な」(B: p192)「概念道具」ではあることは認めるが、それから特に発展性が見いだせないまま30年も経っているのだ。今後のミーム論に可能性がないとは言わないが、いつまでもミームにこだわって議論を続ける必要はもはやないと私は思うが、どうだろう。

(2011-03-31公開,2011-04-02更新)

書誌情報と関連リンク

A

リチャード・ドーキンス (著)
日高 敏隆 他 (翻訳)
『利己的な遺伝子(増補新装版)』
紀伊國屋書店 (2006/5)

出版社による本・著者の紹介

B

ロバート・アンジェ (編)
佐倉 統 他 (翻訳)
『ダーウィン文化論―科学としてのミーム』
産業図書 (2004/09)

出版社による本の紹介

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