ブルデューが最後に考えた「科学とは」
大場 裕一書評:ブルデュー『科学の科学』
自らを社会科学者と位置づけるピエール・ブルデュー (1930-2002) の講義録。ブルデューにとって、これが最後の講義となった。彼が幅広い守備範囲の中から最後に科学を論じた理由は、自らが行ってきた社会科学をマトモな科学のひとつとして救い出したいからである。そして、その方法として自らの社会科学を使うのである(これが、本書のタイトル「科学の科学」の意味)。またブルデューは、この救出作業が、商業主義に呑まれている科学者に軸を取り戻させる作業であるとも考えているようだ。相対主義と素朴実在論の両方から距離を置こうとするブルデューの科学論は、科学者の感覚にもよく馴染むように思う。
本書は3章構成になっている。
第1章では、これまでの科学論(とくにマートンやブルーアの科学社会学とラトゥールの社会構成主義)が科学の一側面しか見ていない極端な科学論であることを批判する。
第2章では、いよいよブルデューがいかにして科学をラディカルな社会構成主義から救い出そうとしているかが明かされる。まず、ブルデューは「界champ」という用語を持ち出す。いかめしい字面だが、相撲界とか芸能界とかと同じ「業界」のことだと思えば大体よい。次に、「科学界」というものが高い自律性をもった特殊な界であることが論じられる。そして、本書中もっとも結論に近い言葉として私が読んだのは次の一節である――「科学は、何らかの始原的奇蹟に頼る必要なしに、より多くの合理性をめざして絶えず前進できることを説明するための原理です」(P134)。つまり、批判的合理性の蓄積という属性が科学界の社会基準であることこそが(社会科学ともども)科学を社会構成主義から救い出す根拠となる、とブルデューは考えているようだ。
第3章は、ブルデュー自身が行ってきた研究の回顧になる。1章や2章と無関係ではないが、本書の主要なテーマにはあまり重要ではない。
本書に示されたブルデューの科学観は、科学哲学としては厳密ではない(なぜなら、「どうして絶えず前進するのか」の説明がないから)だけでなく、これまでの科学哲学が十分に議論してきた範囲を超えているようには思われない。しかし、(ドーキンスが「ミーム」や「利己的な遺伝子」などのキーワードを使って鮮やかに問題の在処を分からせたように)「界」という言葉を使ったブルデューの科学論は、科学者に「そうか」と思わせるツボを押さえた巧さがある。
(2011-02-11公開,2011-04-27更新)