「科学者の科学離れ」でよいのか
林 衛
雑誌『科学』(岩波書店)編集者時代の体験から始めたい。
大学院で地球科学を修了後,たまたま入社できた出版社で科学雑誌編集部に席を得た。一口に科学といっても,その広がりの大きさにくらくらしたのがスタートだった。少人数の編集部で,幅広い分野をカバーする総合科学雑誌を編集する。それまでも,好きな記事,必要なページに目を通す読者ではあったが,編集部の仕事として毎号すべてのゲラの通読,校正をするのはもちろん,多様な分野の企画を立案・実現するために,各分野の著者・研究者とのやりとりする生活が始まったからだ。
1994年から7年間の編集部在籍期間にめざし,なんとか達成できた大きな目標は,およそ20年続いてきた部数減に歯止めをかけ,上昇傾向を示すことだった。その秘訣はいろいろある。このコーナでも紹介することがあるかもしれないが,大きくは,編集方針の改善(著者人とのつきあい方)と売り方の工夫(読者とのつきあい方)の二つに分けられる。両方とも好きだった私は,著者との打合せにでかけるついでに,『科学』の対象となる読者が利用しているはずの書店や大学生協に立ち寄っては,『科学』の売れ行きをはじめとする情報交換に努めた。
関西のある医科大学でのことだ。ベテランの生協書籍部店長さんから「あなたはなにもわかっていません」といわれた。「1,2年の教養のうちならともかく,3年生になったあとは『科学』など読んでいたら教授から学生がおこられるのです。そんなの読む時間があるのならば,『蛋白質核酸酵素』『細胞工学』といった専門誌を読みなさいと」。ただし,「少年ジャンプやマガジンだったら,息抜きとして許される」のだというダメ押しまでくらった。『科学』がつけいるすき間は,細いらしい。専門を極めるための教養として,『科学』は広すぎ。総合科学雑誌『ニュートン』は,中学生くらいのときに『ニュートン』で卒業ということらしい。そんな雰囲気に気がつくべきだとのアドバイスだった。
同じようなことがおこるのは,生命科学分野に限らない。原子核物理学者から東大総長,理化学研究所理事長,初代文部科学大臣などを歴任した有馬朗人氏も,若いころはまわりの分野に脇目もふらず自分の研究に邁進せよと説く(有馬朗人監修:研究者,東京書籍(2000))。
戦前のサイクロトロン開発のリーダとしてマンハッタン計画に協力,戦後は水爆開発に協力しながら基礎物理学研究の第一線にいたローレンスは,「科学者の任務は,新たな知識と科学技術を開発することであり,結果は政治の責任である」と語り,音楽,美術,哲学,文学は競争のための邪魔者だと捨て去っただけでなく,自分の業績と関係ない物理学の文献をも無視した。そして,学生たちにも,専門分野以外のことをして「時間を浪費するな」と指導したという。しかし,政治家へのロビー活動にも熱心であったローレンスが,その一方で「政治への“無関心”を装いえたのは,自らの巨大実験装置が政治・軍事複合体のなかで“円滑に”機能しえていた限りでのことにすぎない」(佐々木力:核の政治学――戦後科学技術史の原点としての原爆投下,科学,3月号(1999)から)。
総合科学雑誌の売れ行きの比較から,狭い範囲に興味を特化させる日本の科学者の特徴がみてとれる。小中学生から大人まで広く読まれている総合科学雑誌『ニュートン』に比べ,より高度な科学教育を受けた読者を想定した『日経サイエンス』や『科学』のほうが,2001年ごろの出版不況下で部数堅調だったとはいえ,部数が桁違いに少なく苦戦しているのだ(林 衛:科学教育と科学ジャーナリズムの可能性,大学の物理教育,2002-3号(2002))。
なかでも気になるのが,アメリカ発の総合科学雑誌『Scientific American』とその日本版『日経サイエンス』との対比だ。アメリカで毎月50万部売れているのだから,人口比から予想すると日本では20万部売れると見込まれるが,『日経サイエンス』は創刊以来3万部前後で推移している。ところが,アメリカでは売れない,すでに掲載された記事を人類考古学や宇宙論ごとに集めた別冊をだすと,日本では10万部売れたために商売に困らなかったのだ(『日経サイエンス』が『サイエンス』として創刊したときの初代編集長餌取章男氏から聞き取り)。
ただし,郵送宅配中心のアメリカのメガ雑誌文化と書店売り中心で専門分化しやすい日本の雑誌文化は,宅配制度に支えられブランド(新聞のタイトル数)が限られる日本のメガ新聞文化と,多数の地方紙がスタンド売りで競合するアメリカの新聞文化(ブランド多様性が大きいが1ブランドの部数は少ない)とが180度ちがうように対照的であるので,日米の雑誌部数比較からその分野への関心度のちがいをみいだすには注意が必要である(例えば,世界最大1000万超の読売がないからといってアメリカ人の新聞文化のレベルが低いとはいえない)。
しかし,先に紹介した
『Scientific American』別冊 | << | 『Scientific American』月刊 |
『日経サイエンス』別冊 | >> | 『日経サイエンス』月刊 |
という“逆”対称性を,日本における総合科学雑誌苦戦状況とあわせてみると,科学教育を受ければ受けるほど,専門性は高まるが,科学一般への興味が失われるという「科学者の科学離れ」現象が見いだされるのだ。その実態や影響は断片的にしかとらえられていないで,現象といってもこれはモデルまたは仮説の段階にあるにすぎないが。総合科学雑誌の部数拡大は,この作業仮説「科学者の科学離れ」との格闘でもあった。
では,この「科学者の科学離れ」は悪いことなのだろうか。医学生を覆う雰囲気や有馬発言やローレンスの装いが悪いのだとしたら,その理由は何だろうか。あるいは,「科学者の科学離れ」が高度化・専門分化する現代社会の科学や技術のハンドリングにおいて避けがたいことであり,科学雑誌の売れ行きが下がり,出版社や編集者が困ろうと,とくに問題はないということなのだろうか。
「科学者の科学離れはつまらない」だからこそ,「隠れカルテジアン」だ。というのが,私の思いの一つなのだが,その論証は次回以降に続けさせていただきたい。
(2011-02-11公開,2011-02-15修正)